2012年10月31日水曜日
"ジェイ・サンキー センセーショナルなクロースアップ・マジック" Richard Kaufman, 訳:角矢幸繁
ジェイ・サンキー センセーショナルなクロースアップ・マジック (Richard Kaufman, 2012, 角矢幸繁・訳)
Sankey Panky (Richard Kaufman, 1986)の邦訳。
やー面白かったです。
色々書こうと思ったのですが、困ったことに、僕が思ったこと、言いたかったことの殆ど全てが、すでに本の中で言及されてしまっていて書くことが無い。
無理に書こうとすれば、本文の引き写しに近くなってしまいそうですし。はてさて。
ともあれ、変人Jay Sankeyの初期作品集が、四半世紀を経て邦訳されたのです。
「何故いまSankeyなの? とよく言われたものです」と訳者後書きにもありましたが、僕もまたそのような最近の人間の一人でした。
Sankeyといえば乱脈なまでの多作とその玉石混淆具合、そして奇矯なキャラクターのせいでどうにも近寄りがたく、Revolutionary Coin Magic DVDは素直にすげえと感心しましたが、他方、カードものなどはもはや見る気さえ起こらなかったのが正直なところです。
何故いまSankeyなのか。
読んだら、解りました。それも最初の数ページで。
話は少し迂回をします。依井貴裕という推理作家に「歳時記」という作品があります。かなりの無理をしていて面白い作品なんですが、内容は今はどうでもよい。冒頭に奇術愛好家達が手品を見せ合うシーンがあり、そこで演じられる作品の一つにこんなのがあります。
カードケースに輪ゴムがかかっていて、その輪ゴムにサインをしてもらう(サインつきのシールを貼ってもらう)。輪ゴムをケースから外して揉むと消えてしまう。ケースからデックを出すと、デックには輪ゴムがかかっていて、その輪ゴムにはサインが……。
当たり前の道具立てで、取れる手法などごくごく限られているはずなのに、考えてもいっかな解法を思いつかない。類似の作品も見あたらず、当時の僕は、きっと手品の世界にはまだまだ不可思議な原理があるのだろう、と自分を納得させて解析を諦めたのですが、この手順のクリアさ、不可能さは実に印象的であり、正直に言うと小説そのものよりずっと心に残っていたのでした。
で、センセーショナルなクロースアップ・マジック ですが、はじめは買う気はなかったのですよ。たまたま友人と遊びに市内に出て、たまたま時間が余って大型書店に寄ったら、たまたま置いてあったので何気なく手に取ったのです。ページをめくって1作目の「溶け込む輪ゴム」。
思わず声を上げそうになりましたね。もう何年も前に読んで以来、ずっと引っかかっていた現象が目の前にあったんですから。
しかも作家の嘘も疑ったくらいの現象を、実に合理的に成立させていたのだから驚きました。
続く「輪ゴムにえさを与えないで」でも、当たり前の道具、輪ゴムとトランプが実にコミカルで不思議な姿を見せる。なんだよトランプの攻撃形態、防御形態って。あとはもうレジに直行です。
まあこれは多分に私的なケースですが、センセーショナルの題に偽り無し。今見ても、いや今だからこそ余計にセンセーショナルかもしれません。
これも訳者の方が指摘しておられますが、Sankeyの手順は、確かに奇矯で無茶もあるものの、同時にとても合理的で無理矢理なところがない。やたらアクロバティックな技法もあるんですが、フラリッシュ的な意味でのアクロバットとは違う。この感じは説明が難しいのですが、どうもSankeyの創作スタイルから来ているらしい。本人はこれを、後書きにてマテリアル・フィクションと名付けていました。
道具に命を吹き込む、という書き方もされていますが、それではただのアニメーションと混同してしまう。そうではなく、道具に命があると仮定して、その動きを想像する創作アプローチと僕は解釈しました。客側から見ると、道具それ自体が、その動きや現象に対して合理性を与えるという感じ。む、やはり難しい。同書を読んでもらえれば早いと思います。
この発想は本書全体を貫いており、他のアプローチでは決して世に生まれなかったであろう不思議な現象が目白押しです。
両手の間に透明のチューブを渡し、コインが手から手へ移っていく所が見える「見えない架け橋」、コインがゆっくりとお札を貫通していく「四次元コイン」、そしてかの名作エアタイトなどなど。実に独創的であり、また解法も美しい。
既存の技法を組み合わせた解決などでは決して無く、まさしくその手順・現象のための動作によって不可能が成立する。まるで初めからその形で存在していたかのような、完成されたものを感じます。
一方で、このアプローチには如何ともしがたい制限があるようにも感じました。
繰り返しますが、マテリアル・フィクションでは「属性を付与する」のではなく「属性が露わになる」。
つまり全般に道具自体が主役であり、主体なのです。マジシャンの意志なり魔力なりが介在する余地が無い。
たとえば、そうだなあ。
マトリックスであれば、カードとコインを使って瞬間移動を演出します。
そこではコイン・カードという静物、ただの物体であることが自明な物によって、不可能現象あるいは魔法の力がクロースアップされる。
しかしSankey流であれば、つついたコインが波打ちうねりだし、虫のようにごそごそと反対のカードまで移動していったような感覚といえば良いでしょうか。
もちろん全てがこうでは無いのですけれど、マテリアル・フィクションにのみ依って立つ作品には必然的にこのような側面が現れるのではないかと思いました。その自己完結性が、完成度の高さにもつながるのかも知れません。
うーん変な話になってきた。まあ演じる人次第ではあるでしょう。Sankeyの演技・プレゼンテーションが、こういった未知の属性の”デモンストレーション”といった感じが強いために、余計にそう思うのかも知れません。
ごちゃごちゃしたうえにあまり内容に触れてませんが、日本語文献ゆえ、まともな紹介は簡単に見付かるはずなんで、もういいやこれはこれで。
ともかく、見立てでも技術でもない、ましてや魔力でも無い、まったく異なったアプローチによる創作群は、わたし達の知っているマジックとはどこかかけ違っていて、非常なインパクトがありました。
革命的、の惹句に嘘はありません。
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hirokadaさま:
返信削除こんにちは、初めまして。訳者の角矢幸繁と申します。
素敵なレヴューをありがとうございました。
私が伝えたかった事を、ほぼすべて語って戴いて嬉しかったです。
この本を末長くお楽しみ頂けましたら幸いです。
感謝を込めて。
角矢 幸繁
はじめまして。
返信削除まさか御本人がお見えになるとは思ってもいませんでした。
好意的なコメントをありがとう御座います。
が、めっそうもないというか、結局、本とあとがきの内容を抜き書きしたようなものになってしまったので……。
記事には書き漏らしましたが、初っぱなからMaven先生がやや否定的な論調で前書きを書いていたのが面白かったです。絶賛で埋め尽くされた太鼓持ち記事でないところが、逆に本書の過激な面白さを物語っているように思いました。